櫟本校区

櫟本(いちのもと)

古事記の応神記に、いちひを……云々の歌があり、姓氏録に櫟井臣の名が見え、中世には櫟庄・櫟韋庄・櫟本庄などの庄園名が現われるので、古くからこの地はいちいまたはいちといったのが、櫟本庄となった。櫟の木があって起った名か、または櫟の木の下に井があって名づけられた地名である。櫟本庄は中世櫟本郷となり、近世の検地で櫟本村と呼んだが、市場・高品・膳夫・南小路・四之坪・瓦釜の垣内に分かれていて、今も大字に準ずる集落である。

いちは丹波市や中山の市場のように上街道に沿って近世になって栄えた市場である。福住方面から下って来てこの市場へ出る所を馬出しといい、その南には在原寺のあった在原もあるが、今は市場の中にふくまれている。

たかしなは昔のたかしな郷の遺名である。崇神紀に高橋邑の人いく の名が見え、武烈紀には影媛が歌ったうたに「いそのかみ布留を過ぎ、こも枕高橋過ぎ」と現われる。影媛の頃は今の高橋川より二百米ほど北の平尾山の西北部に高橋があった。奈良朝以後はそれより北の和爾下神社(治道宮)の南に移った。高橋臣やその子孫の高橋氏が中世ここに居たが、この橋から起こった名であり、たかはしはたかしなというから、今の高品もその遺名である。埼玉県入間郡にたかしな村があり参照すべきである。

膳史かしはもと膳夫かしわでといった。橿原市に膳夫かしわでという大字があるが、ともに膳夫氏関係の地名である。膳夫とは古代朝廷の膳部を司どった部民で、その長官は膳臣かしわでのおみといった。寛永21年(1644)の治道宮(和爾下神社)の細男座の記録の中に、カシアテ助二郎・カシワテ孫太郎・かし村善次郎などの名が見えるが、かしわで村からかし村と略称するようになり、膳史と書くようにもなった。明治中期からはもっぱら膳史と書くようになっている。ここには中世、膳夫寺という寺もあった。

みなみしょうは庄司のいた所で、ここの場合はその南の方という意味。

つぼは条里制の坪付の名である。千三百年前の坪付の名がそのままに残って村の名になったのである。京南路東五条五里の四の坪は今の添上高等学校(小字堂の前)の東部に当っていて、二町ほど南へずれている。これはもとこの辺にあった四の坪の集落がこちらへ移動したものと考えられる。

かわらがまは櫟本駅前のあたりをいう。ここにおさ寺があり、白鳳時代の瓦が出土するので、その瓦を焼くかまのあった地であろう。しかしまだ瓦がまの遺跡は発見されない。

櫟本

楢(なら)

櫟本が櫟の木に関係あるように、楢は楢の木に関係ある地名である。別に平らかな傾斜地をならともいうので、石上・豊田・佐保庄・渋谷にある小字の奈良田はそういう地形であり、ここの楢や奈良市の奈良も、ならならか両方を考えねばならぬだろう。但し奈良市はナラ、楢はラでアクセントは異っている。

楢

蔵之庄(くらのしょう、くらんしょう)

中之庄・佐保庄・田井庄・上之庄などと同じく中世の荘園の名がそのままに今に残って大字の名となっている。古記録のなかには天理市域に約40の荘園名を見出すことが出来るが、和爾庄や櫟本庄は和爾村とか櫟本村とよばれるようになった。蔵庄や中之庄は荘園となって出来た名だから、そのまま荘園の名が村の名となって残ったのである。倉庄とも書かれた。 内蔵 くら の庄とか蔵人の庄とか、何か領主関係の荘園名かと思うが詳かでない。

蔵之庄

森本(もりもと)

中世、西大寺三宝料田園の記録に「添上郡三条七里六坪わにのもりもと」とあるが、そこは今の森本の唐林池の東の小字唐林の地に当り、森本領である。古代の和爾の地は今の大字和爾よりは広い地域であったから中之庄や森本は和爾の中である。また古池の南、和爾の丘陵の下にさかもとという地名があり、ここが神武紀のさかもとであると考証されている。ここの氏神を森神社、又は森本神社というが、神をまつった所が森で、そこにできた村だから森本といったのか、この東に唐林という森があってその下の村でこういう名になったのか、どちらかであろう。杜本庄とも書かれているが杜は森の古字である。

森本

中之庄(なかのしょう、なかんしょう)

寛弘7年(1010年)の東大寺牃には和邇庄と共に中庄の名が見える。また明応5年(1496年)の春日神社文書の中には、東和爾庄を中庄といったということを記されているので、中世になって和爾の東北に中之庄が出来たと思われる。中之庄の西部に西の庄という小字もある。ここ中之庄は山間から下って来て、古い山辺の道と交わる所だから、ここの大字内に公称ではないが、いたち垣内という所がある。市立ち垣内のことで、ここで市が立ったのである。

中之庄

和爾(わに)

古くから史上に現われる地名である。神武紀に和珥の坂下の名が出、崇神紀に和珥のたけすきの坂の名が現われる。古代の豪族和珥臣の本貫地であり、和珥池が掘られている。大倭国大税帳に丸神戸わにのかんべの名があり、東大寺や興福寺の記録に和邇庄が見え、延喜式神名帳にも和爾に坐す赤坂比古神社が現われる。ところが何分古い名でわにとはどういうことか、解決しにくい。色土に関係した説話が多いのではにから変化したのではないかという説もあり、南方語では舟の意味であり、アイヌ語では嶮岨な森というような意味になるが、なお考うべきである。

和爾

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